2014年10月号 特集 「新しい市場を切り拓くために」

通信販売の醍醐味のひとつは自ら市場を創出できるということではないだろうか。独創性のある商品を開発して、それをダイレクトに世に送り出して、それが受け入れられる。ここでしか買えないという稀少性によって、自分たちのオリジナル商品がひとつの「ジャンル」となるのだ。成功をおさめる通販企業というのは、大なり小なりそのような自分だけの武器をもっている。群馬県高崎市の原田・ガトーフェスタ ハラダもそんな企業のひとつだろう。2000年に発売したラスク「グーテ・デ・ロワ」が全国的な人気となり、従業員十数名の「地方都市のお菓子屋さん」が今や1,000名近い従業員を擁する企業へと急成長を果たした。11年間で売上げが200倍になったという脅威の急成長を果たすことができたのは、やはり単なる一過性のヒットではなく、自ら市場を切り拓いて唯一無二のポジションを築いたことが大きい。同社の通販部門の立ち上げも行った原田節子専務取締役に、市場を生み出す苦労とその秘訣を聞いてみた。

 

株式会社 原田・ガトーフェスタ ハラダ
本社 群馬県高崎市新町1207
代表者 代表取締役 原田義人
創業 1901年(明治34年)
会社設立 1942年(昭和17年)
資本金 1,000万円
従業員数 967名(2014年4月末現在)
直営店 19店舗
工場 本社工場 群馬県高崎市新町1207
   高崎工場 群馬県高崎市下之城町584-8

 

■創業からラスク誕生まで

地元密着のネーミングは全国展開では通用しない

――まず、ガトーフェスタハラダの代名詞であるラスクが生まれた経緯から教えていただけますか。


原田 そもそも私たちは、現在の中山道店の場所で1901年に和菓子店として創業し、そこから洋菓子製造や学校給食向けのパン製造に参入したという経緯があります。昔から自社でパン製造をしていたこともあり、ラスクというものが良い材料を使って上手に作るとパイよりおいしく食べられるというのはよく知っていました。ですから、余ったフランスパンをスライスして加工した10枚ぐらいの袋詰めをレジ横に置いておくということもしており、かねてより商品化したいという思いはありました。それが実行に移されたきっかけは業績不振です。人口1万2,000人ぐらいの小さな地方都市にある200坪ほどの「町のお菓子屋」ですから、バブル崩壊や大型店やコンビニが進出してくるという時代の流れのなかで、それまでのやり方では通用しないという問題に直面しました。そこで何とか企業再生をしなければというところで新たな商品開発を始めたのです。ラスクに先駆けて開発したのは和菓子でしたが、夏に弱いということで翌年の需要期まで忘れられてしまう問題がありました。さらにその時に学んだのが、地元に密着しているネーミングだと、いざ全国展開する時に通用しないということです。地方経済の枠の中で商売を続けていくことが本当に無理になってきたと実感しましたね。そこで、地方の枠を越えてマーケットを全国に広げられ、日持ちのいいもので夏でも強い商材は何かということで、以前から製造していたラスクに着目。2000年に「グーテ・デ・ロワ」を発売したのです。

――そのような商品開発の過程で気をつけたポイントなどがあれば教えてください。

原田 中山道店がある高崎市新町というのは文化的な街で非常に住みやすいのですが、観光資源も歴史的文化遺産もない。そういう地の利が何もないところから商品を発信するので、とにかく「感動していただく」ことにこだわりました。人は自分が感動したことは大切な人にも伝えたいじゃないですか。これを私たちは「感動のコミュニケーション」と呼んでおり常に心掛けるようにしています。これを実現するには、まずは材料や製法にこだわるという質的水準が50%。残りの50%がネーミングやパッケージデザインなど、いわゆる商品のストーリーの部分だと考えています。

百貨店の物産展、折込チラシなどで販促を行う

――「グーテ・デ・ロワ」を生産していくうえで苦労したことは何でしたか。

原田 やはり設備投資ですね。当時は従業員14~15名の会社ですから、新商品をひとつ開発するだけでも機械を入れたり包装資材を用意したり、ものすごくコストがかかってしまう。ただ、実はラスクの開発に踏み切ったのも少ない設備投資で済むからということもあったのです。ラスクを生産するには、まずフランスパンを作って、その後加工するという2段階の設備が必要ですが、私どもの会社は幸いなことに県内の同業者の皆さんと共同経営していた学校給食パンの工場を持っていました。そこにはフランスパンの設備もあり、さらにラスク加工時には大きなトンネルオーブンが利用できました。給食は米飯の日もありましたので、ご飯が給食に出る時には空いた設備をつくり使うことができたのです。

――当初はどのように販促されたのですか?

原田 百貨店の物産展に出させてもらって試食していただくということから始めました。みんな大きな声を張り上げて呼び込みをしました。当然、父も母も自ら売っていました。14年前ですから父は70歳、母も68歳くらいでしたので、母は催事が終わる頃には喉を枯らして声が出ないこともありました。私は一人で通販を始めていたので代わるわけにもいかず、見ていて辛かったですね。あとはチラシですね。現在はDMだけですが、当時はだいたい半径20km圏内に新聞折込チラシを10万部ほど撒きました。最初はB4版で、クーポン券付きやセールとかではなく、純粋に商品のお披露目です。裏に通販に繋げるような情報を入れ、なるべくきれいに、とっておいてもらえるような魅力的なチラシになるよう工夫しました。それを2~3年続けていくうち、B4版をB2版に変えたりして最終的には新聞の見開きサイズのものを、さいたま市の一部も含む半径70km圏内に40万部くらい撒きましたね。

■ラスク大ブレイクのきっかけ

メディアではなくクチコミでブレイクしたのが良かった

――地道な販促活動が実を結び始めたのはいつ頃でしょうか。

原田 2000年1月に始めたのですが、その年の暮れには店舗に行列ができるようになっていました。菓子というのは暮れからお正月にかけてが一番のピークなのですが、予想を遥かに上回る勢いで売れていきました。まだ生産量が限られていたのですぐ足りなくなる。「本日売り切れました」という看板を出しておいても、それでもお客様は関係なしにどんどんやってきますからね。そこで買えない方に対しては予約を取るわけですが、そうなると私たちのなかでも店舗と通販で商品の取り合いという“バトル”が始まる。時には通販のお客様を断らなくてはいけないこともあって、泣きながらお詫びしたこともありました。そうすると通販で買えないなら直接店に行こうということで店舗の方に来られるお客様もいるのですが、そこでもお断りをしなくてはいけない。中には遠くからわざわざ来られるお客様もいたので、本当に申し訳なく辛かったですね。

――通販も当初は反応がなかったのですか。

原田 そうですね。JADMAの会員ならばおわかりになると思いますが、やはり“種まき”の時期は電話が鳴るとドキッとするくらいかかってきませんでした。それがだんだん増えてきて、一気に電話が鳴り止まないようになる。小さな雪の塊を転がしていたら急に大きな雪だるまになってしまったようなイメージですね。

――急に人気が出たというのは、メディア等で紹介されたなどのきっかけがあったからでしょうか。 

原田 メディア経由ではなく私どもは確実にクチコミだけで広まっていったんです。というより、最初はメディアからまったく相手にされませんでした。ある百貨店の催事に出た時、隣のブースにテレビで紹介された店があって、すごい行列ができていたことがありました。その行列でうちのブースが隠れてしまうなど悔しい思いもして、正直うちもメディアで紹介されたらどんなに楽かなとうらやましく感じたこともあります。でも、今となっては逆にメディアに取り上げられなかったことが良かったと思っていますよ。

強引に売上げを伸ばすのは商品の寿命を短くするだけ

――それはどういうことでしょうか?

原田 テレビなどで紹介されて急に売れるようになると、生産設備も整わないままとにかく急ピッチで増産しなければいけないじゃないですか。あれは絶対に後でしわ寄せがくる。急いで設備投資をした途端“ブーム”が去って、結局、借金と遊んでいる設備しか残らないという話もよく聞きます。でも、私どもは本当にクチコミだけで伸びていったので一過性の流行ではなく、本当にうちの商品を欲しいというお客様に背中を押していただくような感じで設備投資をした。とにかくお客様の需要に対して満足していただきたい、売り切れですとお断りしたくないという思いが強く、設備投資が恐くなかった。

――具体的にはどのような設備投資を行っていったのですか。

原田 初めはラスクも刷毛でバターを塗っていたのが、やがて機械を開発して対応していたのですが、いよいよそれも間に合わなくなって新しい工場用地を物色している時、同じ町内で中山道店にもよく来ていただいていた常連のお客様で敷地5,000坪位のプラスチック成形工場の工場長さんがいて、その方から「2002年に撤退するので、うちの工場を買ってくれないか」とお声掛けいただいたのです。そして、同年にできたのが最初のラスク生産工場です。

――さらに人気が全国区へと広がっていくわけですが、このブレイクのきっかけは何だったのでしょうか?

原田 急に売れるようになったのはやはり東京に出店してからですね。「第2のブレイク」という意味では、たぶん松屋銀座や新宿京王百貨店の小さな1坪くらいのスペースでお店を出させてもらったことが大きいのではないでしょうか。ただ、初めからすごく売れたということはなく、やはり暮れに大きく上がりましたね。先ほども申し上げたようにお菓子は暮れがピークで、それから少し下がって、バレンタインデーやホワイトデーにかけて3月に第2のピークを迎えるというのが定石なのですが、この時は下がる気がしませんでした。実際にその売上げをベースに、どんどん売上げが伸びていったんですね。売上げ規模でいえば2000年の時はバブル崩壊後に下がっていき、1億円を若干切っていたところからのスタートでした。それが10年後には120億円と、150倍になりました。さらにその翌年は160億円になったので、11年間で200倍という急成長を果たしたことになります。

――そのような急成長を果たして、ここまでの人気になった割には店舗数が少ない印象ですが、それは戦略なのでしょうか?

原田 そうですね。基本は1都市1店舗にしています。お菓子の業界というのはやはりパイが小さいのです。そんなに大きいパイは無いなかで強引に売上げを増やして倍にしたりしていくと、例え実現できたとしてもその商品の寿命がいたずらに短くなるだけなんですね。だから私たちはそんなにむやみに出店はしません。

■通販参入と今後の展開

労働環境の充実で会社を愛してもらう

――通販に参入をしたのはいつからでしょうか。

原田 ラスクを始めた2000年当初には通販を始めていました。中山道店の一角に、テーブルを1つ用意してそこにコンピューターとプリンターと通信販売用の電話とFAXを置いて私ひとりで始めたという感じです。やはり電話とFAXが中心で、手作りでホームページを開設しましたが1日5件くらいしか注文が来ないような状態でした。今は通販の70%がネット経由ですが、15年前はネット通販どころか通販そのものも今のように注目されていませんでしたから、とりあえず参入を果たしたけれど海のものとも山のものともわからないという感じでしたが、試行錯誤を繰り返し、今では通販の売上げは全体の約20%を占めるほどになりました。

――当初から通販の可能性を感じていらっしゃったのでしょうか。

原田 やはりマーケットが全国であってここから発信しなきゃいけない、ということで通販は常に視野に入れていました。あとは常にダイレクトマーケティングも意識していたこともあります。利益率を考えると、やはり直販が一番ですから。実はその前にも手作りのホームページを作って和菓子の通販なども行っていたのですが、足の早い和菓子で通販を行うというのは本当に大変でしたね。その点、ラスクは稀少性もあるし、日持ちもするので通販にはもってこいです。当初から通販参入を視野に入れて開発したものと言っても過言ではありません。

――急成長した企業の悩みのひとつが、組織が拡大していく中でノウハウなどの継承や教育をどう行っていくかという点だと思いますが、そのあたりはいかがですか?

原田 悩みましたね。私がひとりでやっている時は、お客様から無理を言われてもある程度受け入れてしまうこともありましたが、組織が大きくなるにつれてある程度のマニュアルを整備しなくてはいけない。あとは百貨店への出店でも悩みました。もちろん、今は計画出店していますが、当初はご縁なので百貨店からお声掛けいただければ、期の途中だろうが出店していました。そうすると、急な採用で来てくれた人たちは、いわばアルバイト感覚でモチベーションがそれほど高いわけではない。こういう人たちに気持ち良く働いてもらうには、やはり自分が売る商品を愛してもらう、ひいてはこの会社を好きになってもらうことが大事だと思って福利厚生に力を入れるようになったんですね。

感動発信企業であり続けるには「再生」を続けていくしかない

――今後の展開について教えてください。

原田 今後の展開というと、経営戦略や出店計画などはもちろんあるのですが、それよりも私たちが永遠の目標として掲げているのは、常に感動発信企業であり続けるということですね。そのためには、企業再生をし続けることです。よく売れる物の定義に「QCD」という考えが使われます。品質とコストとデリバリー(納期)によって商品の価値が決まるというものですが、私たちはさらに、これに付加価値が加わってこそ商品の価値が生まれると考えています。具体的には、希少価値、それから物語的価値(コンセプト)、パッケージなどの芸術的価値、接客などのサービス価値、そして企業価値。これらが加えられることで初めて「ブランド」というものが生まれて、お客様に「感動」を与えられると思っています。ただ、この付加価値というものは必ず時が経つと色褪せていきます。普遍的な付加価値だと思っていても、やはり時代や嗜好の変化で風化していくわけです。それに備えて、私たちは経常利益20%の経営をしています。つまり、利益を再投資して企業を再生し続けるということですね。ですから、私たちは「千寿万世」という言葉を社是としています。常に時代を先取りし、革新と創造による時流適応の経営、再生し続けることこそが企業存続の礎であるということで、利益は再生のための原資という考え方なんですね。人間は常に古い細胞を落とし、新しい細胞を再生していくことで生命活動が維持されています。企業も全くそれと同じだと思うんですね。

――そのような意味では、昨年3月に誕生した高崎工場は会社の新たな再生のために造られたということでしょうか。

原田 そうですね。新たな工場を造った理由は大きく分けて3つあります。まず、物流の拠点としたかった。本社工場は今ありがたいことに工場見学に多くのお客様が訪れ、観光バスも入ってきます。そこに配達用のトラックも急激に増えてきているので、安全を確保するための新しい拠点が必要でした。次に、福利厚生施設の充実。本社工場を建てた時もレクリエーションルームやリラクゼーションルームなどかなり充実させたのですが、やはり急成長に伴って作業場やロッカールームなどに徐々に“浸食”されてしまいました。先ほど申し上げたように、私たちは労働環境の整備が何よりも大切だと思っているので、これをきちんとした形で復活させたいという思いがあったのです。そして最後は一番の大きな理由となっていたスペースの問題です。本社工場はもう新しい生産設備が置けません。ということは、例え魅力的な新商品を作っても生産できない。新しい「感動」を発信するためには新しい工場が必要だったのです。そのような思いを込めて、高崎工場は「シャトー・ドゥ・クレアシオン」(創造の館)と名付けました。ここからお客様の新たな「感動」を創出していくつもりです。

――楽しみにしています。本日はありがとうございました。

原田 ありがとうございました。

 

 

 

 

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